記者会見での羽生との一問一答は以下の通り。
――どのような思いでパレードに臨んだか?終えてどのような気持ちか?
「自分自身の企画したアイスショーが終わって、それから少し時間があいてからパレードだったんですけれど。このパレードが待ち遠しく、たくさんの方々がパレードに来て一目見たいと言ってくださっていたので、僕自身もワクワクしながらこの数日を過ごしていました。こうやって無事にパレードを終えることができ、改めてこの仙台に帰ってきたな、という気持ちもすごくありましたし、改めて今回の金メダルの重みを感じたところです」
――平昌五輪後、初の仙台凱旋。地元仙台、宮城からの声援をどう受け止めたか?
「平昌五輪のときも皆で応援できる場を設けていただいたりだとか、皆さんが応援してくださったのをニュースや記事などで知って、そういうひとつひとつの力が自分の背中を押してくださったということを、今回も改めて感じました。まだまだ仙台や県を含めて復興の課題がある中で大規模なパレードを開いてくださったのは、僕自身も重く受け止めて、僕自身も県内、市内のみならず、世界中の方々に復興の手助けとなるような、きっかけとなるような行動をしていけるように心掛けないといけないと思いました」
――パレードでどんな声、何が見えたか?
「僕の方から見ているといろんな目というか、皆さんが僕自身1人だけに注目してくださっているので、温かい目や“おめでとう”っていう声だとか、そういったものが自分の心に、脳裏に焼きついたと思っています。多分これは地元だからこその光景だったと思いますし、これは自分にしか味わえない光景だったし、自分にしか味わえない気持ちの量だったり質だったりだと思うので、地元にいるからこそ、そういったものをもっとしっかりと心の中に持ち続けてこれからも過ごしていきたいと思える瞬間でした」
――パレードで人1人の顔は見えたか?知り合いの顔を見つけることはできた?
「もちろん1人1人の顔を見るように努力していましたし、歓声や“おめでとう”の声は直接耳に入ってくる訳ですけど、1人1人の声を判別できる訳じゃないのでそこはちょっと不確かかなと思います。ただ、今、自分が世界を舞台にして戦っていく中で、地元の放送局の方とか昔取材してくださった方、地元の放送局の方とかは“あ、懐かしいな”と思える瞬間でした。自分がこうやっていろいろな舞台で戦うようになって、地元の局の単独の仕事とかができなくなったのは申し訳ないと思うと同時に、“見ているよ”っていうのは変なんですけど、自分の中に残っていて、今ここで金メダルを下げている自分につながっていると思うので。地元だからこそ市内で、県内だからこそ思える気持ちはすごく大きなものがありました」
ソース:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180422-00000146-spnannex-spo
――4年前のパレードとの景色の変化は?羽生選手を目指す子どもたちにメッセージがあれば。
「4年前との違いはあまり考えなかったです。ただひたすら今のこの瞬間がすべてだと思いましたし、この瞬間にありがとうって伝えたいという気持ちでいっぱいでした。小さいお子さんや親子で一緒に手を振ってくれたり、肩車とかで応援してくれる子どもたちも見えた。僕は今、夢が叶った立場としてお話をさせていただいて、自分の首にも夢に描いていたものが掛かっていますし、今は夢が叶って幸せという状況だと思います。ただ、夢が叶うまでの過程はつらいこともあるし、それを乗り越えられるだけの楽しいことや幸せなことがあるので、一瞬足りとも同じことはなくて、1回限りのことだと思うので、すべての瞬間を大切にしてほしいと思いました。いつかその子たちが単独でパレードするぐらいの夢を叶えてくれたらうれしいと思います」
――金メダルの重みは、連覇が決まった時と今日とどのように感じられた?
「平昌のメダルセレモニーが終わって首に掛けていただいて、その時も金メダルの重みはすごく感じました。それは自分がやり切った、自分の夢を叶え切ったという感じだったんですけれど、今回は皆さんの期待をちゃんと背負えたかなって、受け止めた切れたかなって思った瞬間でした。ソチオリンピックの時ってもっと未来に目が向いていて、この金メダルから次の金メダルに走っていくんだっていう気持ちでいたが、今回は取りたかったものが取れたという気持ちでいるので、皆さんの応援を受け止め切れて、ちゃんと皆さんの応援が詰まった金メダルをかけているんだなという実感があります」
――「SEIMEI」のポーズの理由は?
「うちわで“決めポーズ”してって書かれているものがあって、何をしたらいいんだろうって凄い思った。一番やった時に見てほしいと思ったのは、近くの方には『ありがとう』っていう声は届くと思ったし、自分の目線も届くかなと思ったが、遠くで見ている方や通り沿い、交差点で奥の奥の方まで皆さん待ってくれて、凄く大きな声で声援を送ってくれて、手を振ってくれたので、そういう方々に届けばいいなっていう気持ちでやらせていただきました」
――きょうの日を支えてくれた人へのメッセージを。
「パレードをしていただいている最中も、それぞれの店舗でポスターを掲げてくださったりとか、断幕にいろんな言葉を書いてくださったりとか、店舗内からパレードを見ようとしてくださっている方もたくさんいらっしゃった。すごくうれしかったし、僕の中ではすごく『ありがとう』って言いたい日だな思っていた。商業の方も在庫を増やしたりだとか仕入れる量を増やしたりとか、そういったことでちょっとでも仙台や県内の企業さん方にお金が回り、それが少しでも復興の一助になればと思っています」
ソース:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180422-00000147-spnannex-spo
――ファンの声援を聞いて、4年後の北京へ向けた気持ちの変化は?
「僕はソチオリンピックの2年前まで、この仙台でスケートを続けることができたんですけれども。世界のトップを目指すことに関していえは、仙台だけじゃなく県内、東北全体的にフィギュアスケートを本気でやって世界のトップを狙える設備は整っていないと思っています。だからこそこうやってカナダに拠点を移して、最終的に金メダルをかけて戻ってくることができたと思うんですけれど。僕が仙台でスケートを続けられるようになったのは、荒川さんがトリノオリンピックで優勝して、リンクへの補助金とかを支援をしてくださったらから、僕は仙台でスケートを続けることができ、最終的にはカナダに行くことができ、こうやってパレードを開いていただけるようになりました。だから、僕がまたそういう存在になれたらいいなってすごく思っていますし。仙台の子どもたち、もちろん東北の子どもたちも含めて、スケート以外でもスポーツの面で施設とかで苦しんでいる方もたくさんいらっしゃると思う。苦しい方々にもちょっとした笑顔になれるきっかけだったり、支援をしてくださってる企業の方も含めて、市や県も含めてちょっとでもスポーツが発展するきっかけになったらと思っています。仙台の方の声援や歓声は、僕にとって“地元だな”と感じられる瞬間だし、それを感じられることができたのは仙台で練習している時だったからなんですね。だからまた仙台で練習していきたいなって、スケートをしていきたいなって思うことも今回ありましたし、そういう設備が整わなければいけないと感じた。こういことをきっかけに進んでもらえたらうれしい」
――海外の方へのメッセージと、仙台の魅力を海外の方に伝えてください。
「仙台は都会だなと思うこともありつつ、緑が共存していて、そういったところは仙台にしかない空気感だと思います。仙台だからこそ感じられる温かさ、空気の良さを感じていただきたい。東北全体に関してはまだまだ復興が足止め状態になっているところもあるが、そういうところに足を運んでほしいって言ってくださっている方もいらっしゃいますし。古い建物、津波で流されてしまったものとかたくさんあるかもしれないが、それをきっかけに新しく復活している施設や新しくなった駅とか、立ち上がって新しくなった街もあるので、そういったところを見て“ああ、こんなにきれいになったんだな”と思ってもらいらたい」
――(古川学園高校新聞部からの質問)オリンピックで金メダルを取る夢を実現させた羽生選手は、これから大人になる私たち高校生には目標とすべき存在です。夢を実現させるためにどうすればいいか、夢を叶えるために一番必要なことは何か、アドバイスをいただければ。
「僕の中で夢っていうのはすべて叶うものだとは思っていなくて、きっと夢を叶えるためには、いろんなものを犠牲にしたり、自分のしたいことをできなかったり、自分のしたくないことをやらなければいけなかったり、そういう時間がきっとあると思います。ただ、それをやり続けているからこそ、その夢が叶ったときに味わえる達成感はきっと物凄いものだと思うので、もちろん小っちゃい夢をひとつひとつ叶えていって、その達成感が原動力になればいいなと思いますし。自分が人生を懸けて自分の学校生活を懸けて、掲げている大きな目標に関しては、それだけに集中することでそれが叶ったときの喜びも物凄く大きなものになるので、ぜひ何も恐れずに(夢に)懸けることをしてほしいと思います。ありがとうございます。頑張ってください」
ソース:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180422-00000148-spnannex-spo