「4回転だけのために、フィギュアスケートの神髄を忘れたくはないのです」
「若い選手を抜擢する時に必ず見るのは、フィギュアスケートを愛しているかどうかです」
記者を前に、熱くフィギュアスケート論を語る人物。彼こそが羽生結弦、そしてハビエル・フェルナンデスの2人を平昌のメダルに導いた名コーチ、ブライアン・オーサーだ。
オーサーは初めての教え子、キム・ヨナを世界チャンプに導き、指導者としての高い実力を見せつけた。ヨナと2010年に決別した後も、何人もの選手を育て上げている。
自らもフィギュア選手として、1984年のサラエボ、1988年のカルガリーオリンピックに出場。選手として、コーチとして、数々のオリンピックを経験した彼は、平昌オリンピックをどう見たのだろうか。
ブライアン・オーサーが、ハフポスト韓国版の単独インタビューに応じて語った。
平昌冬季オリンピックは、他のオリンピックとどのように違いましたか? 特に良かった点があるとすれば?
冬季オリンピックは、寒い場所で開かないといけません。だから、今回の冬季オリンピックは特に良かったですね。前回までいくつかの国では暖かくて、準備してくれたスキーウェアを着ていられませんでした。
バンクーバー冬季オリンピックのときはプラス15度だったし、ソチも同じでした。太陽がギラギラして暖かく、みんなTシャツを着ていて、冬服を着る場面もありませんでした。
しかし、ここに初めて到着した時は氷点下20度でした。ついに冬服を着られたんです。
選手団が準備した服で、江陵の猛烈な寒さに耐えられましたか?
もちろん。5カ国の選手を教えていると言ったでしょう? だから、私には選択肢が多いんです。
ほかには?
平昌冬季オリンピックは、度を超した華やかさはなく、スポーツの神髄と、選手に集中していると思いました。
ソチも本当に楽しかったんですが、まるで「オリンピック・ディズニーワールド」でした。LED照明をたくさん使用し、かっこよさを出そうとしたからです。
平昌はもう少し「ありのまま」のように感じられます。そのため、他のことよりも選手に集中しているように見えました。
だからといって派手な部分が全くなかったわけではないですよ。開会式は、本当に素晴らしいものでした。
開会式はどうでした?
開会式は、私には本当に特別に感じられました。キム・ヨナが最後に聖火を点火する場面は本当に美しかった。目に涙が浮かびそうでした。キム・ヨナを育てた自負心があるからです。
今回のオリンピックが、彼女にとっていかに重要であるか知っています。彼女はオリンピックの招致活動に参加しましたし、組織委員会のメンバーですからね。
キム・ヨナが登場したとき、みんな涙を浮かべたでしょう。
そうです。私は特にそうでした。美しい場面でしたし、完璧な選択でした。
キム・ヨナはスケートを愛していたのですか?
指導し始めたとき、ヨナはスケートを本当に愛しているようには見えなかった。だから私にも大きな挑戦になると思いました。
しかし、1年半の練習の最後に、美しくしっかりした基礎を築き、ヨナもスケートを愛するようになりました。実力がどんどん向上したので、練習も好きになったように見えました。
練習を通じて、ヨナ自身も知らなかった、自らの美しい動きやジャンプ力などに気づいたようでした。
ヨナの繊細な動きは、息を呑むほど美しいものでした。彼女が成長する姿を見るのは本当に楽しかった。
キム・ヨナが引退を宣言したときはどんな気持ちでしたか?
私たちは、残念な別れ方をしました。そのことはずっと私を混乱させています。しかし私は前に進まなければならなかった。仕事も続けなければなりません。あのとき以降も何度か会ったときには、お互いとてもフレンドリーでした。
私のコーチとしての成果を、ヨナは誇りに思ってくれています。ソチで会った時は弓弦の成績を祝ってくれましたし、ハビエルについてもおめでとうと言ってくれました。
私が思うに、ヨナは私が前に進み、他の選手たちと素晴らしい成果を成し遂げたことが誇らしいようです。だから、ここ(平昌)でヨナと会えることを願っています。
私たちは長い時間を共にしました。いくつもの素晴らしい瞬間を共にし、時には良くない瞬間もありましたが、私たちはそんな時も一緒でした。
ヨナが引退したときは悲しかった。誰もが氷の上に立つヨナの姿を愛しているからです。
平昌でキム・ヨナと会う機会がありましたか?
まだ会っていません。ヨナがあまりに有名なので近付きにくい部分もあります。ヨナも自分の役割に合わせてオリンピックのスケジュールをこなすのに忙しく、私もコーチとして、スケジュールをこなしています。おそらく女子フリープログラムで会うかもしれません。挨拶でもできればいいんですが。